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【1ヶ月前の今日】

 

僕は大学3年の時に軽音サークルを辞めた。

大学論文とアルバイト、就職活動が忙しくなったからだ。もちろん一番の理由は、ユリが短大を卒業し軽音サークルを辞めたからだった。

ユリは短大で、保育士と幼稚園教諭の資格をとり、自宅でピアノ教室を開いた。そして、「ピアノ教室の生徒がある程度集まるまで。」という条件で、保育園の手伝いをしたり、近所の「ロトール」というコーヒーショップでアルバイトをしたりしていた。

ユリのピアノ教室に通う子供たちは、初め少なかったが、ユリは子供たちに人気があり、いつの間にかピアノを教える傍ら、勉強も教える家庭教師になっていた。そして、家庭教師による副収入も増えていた。それほど高収入ではなかったが、ユリはとても充実しているようだった。自分の好きなことを、うまく仕事に結びつけていた。

僕は週末に、ユリがバイトをしている「ロトール」へ行って、定番のウィンナーペペロンチーノをよく食べた。ガーリックとペッパーの効いたピリ辛のペペロンチーノが、僕は大好きだった。そこにユリが辛口ウィンナーを、こっそり添えてくれた。つまりウィンナーペペロンチーノは、僕だけの特別なメニューだった。

その頃も、僕はジョンレノンの曲を好み、ユリはバッハの「人の望みよ。喜びを。」をよく弾いていた。「ロトール」の店内には、ピアノが1台置いてあり、お店が暇な時にはユリがバッハの曲を弾いた。たまに、僕もギターを持参し、ジョンレノンの歌をユリと一緒に弾き語った。お客さんたちも、僕たちの演奏をとても喜んだ。

ユリのいるコーヒーショップ。

ユリが作ってくれるウィンナーペペロンチーノ。

ユリの演奏。

僕の演奏。

そして、お客さんからの拍手。

僕は、その時間を最高に愉しんだ。僕にとって、それ以上の贅沢はないと言うくらいに、最高に幸せな時間だった。

そして、その頃には、「いつ結婚式を挙げようか?」ということをユリと二人でよく話し合っていた。

高校一年の冬、僕たちがバレンタインデイに行った模擬結婚式ではなく本番の結婚式の話を…。僕たちは、高校一年の時の誓いをずっと守っていた。僕は「自分の中の汚れし男」から、ずっとユリを護り続けていた。

僕は大学を卒業しIT企業に勤めた。しかし、僕はパソコンが苦手で、頭痛、肩こり…と、だんだん、体調を崩し始めた。

そして、体の疲れがとれない。仕事もうまくいかない。ミスばかりして、いつも上司に叱られる。という状態が続いた。

結局、僕は就職して一年ちょっとで会社を辞めてしまい、その頃からユリを遠ざけるようになってしまった。

僕は、仕事ができない自分を恥じた。

ユリは「何かあったら私がバイトするから大丈夫よ。」と言ってくれたが、僕のプライドはそれを許さなかった。

「マイホームを建てられないようじゃダメだ。

一年に一度くらい海外旅行に行けないようじゃダメだ。

中古の軽自動車しか持てないようじゃダメだ。

妻の給料に頼るようじゃダメだ。

本当にオレはダメな男だ。」と、思うようになっていた。

同時に、その頃、僕は独占欲や嫉妬心をユリに感じ始めていた。ユリが、男性客と親しげに話しているのが耐えられなかった。ユリは「普通に仕事して普通に接客しているだけよ。」と言ったが、僕はユリの言葉が信じられなかった。

「ユリは、あのお客さんが好きなんじゃないか?僕に内緒で付き合っているんじゃないか?」と、僕はユリを疑うようになっていた。

さらに、僕はユリに執拗に干渉し始めた。「何で、そんな派手な化粧をするんだ?そのピアスは誰からもらったんだ?その新しい靴は誰からもらった?昨日の12時頃、どこに行っていたんだ?」という風に。

僕はそんな自分が嫌になっていた。

しかし、その独占欲のような嫉妬心のような、ユリの幸せを願わない感情を、僕はコントロールできなかった。

とうとうユリも我慢できず、「ノリくん。いい加減にして。そんなに私が信用できない?」と言うようになった。

当時の僕は、ユリを信用できなくなっていた。

「こんな、ダメな僕をユリが愛してくれるはずがない。」と、僕は確信していた。

何より、僕自身がダメな自分に直面したくなかった。ユリの前で惨めな思いをするのがとても怖かった。

そして、僕は、ユリに別れを告げた。

ほぼ一方的に…。

それが、ちょうど一ヶ月前の今日、6月7日だ。

 

 

つづく

 

 

【殺される?】

 

僕とコトハの間にどれくらいの沈黙があっただろうか? 

ひさかたぶりの兄妹げんかは、「だから! お兄ちゃんとユリさんが一つじゃないなんて、おかしいのよ!」 というコトハの一言で、あっけなく幕を閉じた。

 

僕とコトハが沈黙している間、セミたちが兄妹げんかの熱を一生懸命冷ましてくれた。

コトハは熱が冷めたことを確認し、静かに語り始めた。 怒りの感情は、もうない。 幾分哀しみの感情は残っているようだった。

「とにかくお兄ちゃんとユリさんは、一つになっていないとおかしいの。でも、お兄ちゃんの罪悪感が、不幸を選択して別れてしまった。 そのことをお兄ちゃんに分かってもらいたいの。」

「もう、終わったことだし…。」 と、僕は応える。

弱々しい僕の言葉とは対照的に、 コトハの言葉は静かだが強さを兼ね備えていた。 瞬発力は無いが静かに延々と走り続けて行く、マラソンランナーのような強さだ。

「分かってる。もう、ユリさんのことは諦めるしかない。でも今のままだと、お兄ちゃんは同じことを繰り返してしまう。新しい彼女のために、気持ちを整理しておかなければならないの。」

僕は「オレもう、彼女つくる気ないし…。」と、相変わらず力なさげに応えたが、僕の声が聴こえないかのように、コトハはさらに続ける。向かい風に吹き付けられても、物ともせずに走り続けるランナーだ。

「罪悪感に従って不幸を選択してしまうというのは、ある意味仕方のないことなの。罪悪感に逆らって、愛と幸せを選択するのは、とても危険なことだから。」

とコトハが言った時、 僕の意識は「危険」という言葉に向かった。

「危険?」

「うん。愛と幸せを選択すると、殺される…。」

「殺される?」

「そう。コトちゃんは、マイケルが好きだった。コトちゃんは、マイケルを愛していた。マイケルは、本当の愛に生きた。そして、私たちに幸せと感動を与えた。

そして…。殺された。」

「殺されたわけじゃないだろ?」と、僕は反論した。

「もちろんマイケルは整形を望んだ。でも整形による精神面、健康面への影響について、マイケルは知らされていなかった。きっと『まったく安全だ』と聴かされていた。でも、まったく安全な整形手術なんてない…。」

小学生の頃から、コトハはマイケルジャクソンが好きだった。コトハは勝手にボクの部屋に入ってきて、マイケルのCDをよく聴いていた。特にコトハのお気に入りは「 Beat it !」。かなり早口で、テンポの速い曲だ。その高音でハイテンポな曲を、コトハはとても上手に歌い踊った。しかも英語で。本当に見事だった。

コトハが小学5年の時、クラスのみんなが一芸を披露し合う学芸会が開催された。そこで、コトハはマイケルの「 Beat it !」を披露した。ムーンウォークを混ぜて、コトハが「 Beat it !」を歌った時、生徒たちはもちろん先生や父兄も興奮し、コトハに大喝采を浴びせた。

コトハは、話を続けた。

「マイケルは、愛と幸せに生きた。そして、多くの人に感動を与えた。でも、みんながマイケルを好きになったわけじゃなかった。マイケルのお金を狙う人もいた。嫉妬する人もいた。嫌う人もいた。憎しみを抱く人も。

そして、殺したいと思う人も…。」

僕は、あまり腑に落ちないまま、「そうかなぁ。」と疑い半分で聴いていた。

しかし次のコトハの言葉が、僕を納得させた。

「お兄ちゃんの好きなジョンレノンもそうよね…。」

セミの声が小さくなった。

ミー…。

 

 

つづく