幸せの方程式(30)
【 インディア ② 無精卵 】
僕は、フツウにそのまま麻里奈の部屋に入った。
が、フツウでない光景を、目にすることになった。
麻里奈が、洗面台で頭を下向きに垂らし、むせるようにして嘔吐している。
麻里奈とは、毎日、メールで連絡を取っていたが、数日前から少し様子が変だった。
僕は心配しながらも、「きっと、仕事が忙しくて疲れているんだろうな。もしかしたら、梅雨の影響で体調を崩しているのかもしれない。」と楽観的に推測していたが、実際は違っていた。
「大丈夫?」
麻里奈の様子が変だったのは、仕事が忙しかったからでも、梅雨の影響で体調を崩していたからでも、病気を患っていたからでもなかった。
麻里奈が肩を震わせ泣いている。
「ごめんなさい…。」
「えっ?」
僕は理解できなかった。
1分後、僕の口から、不安な声が漏れ出た。
「麻里奈…。」
僕の口からは、悲しみと失望とがグチャグチャに入り混じったような声が出た。
「ニ・ン・シ・ン・?」
灼熱の太陽のように熱い怒りと、シロクマが住む北極海の氷河ように冷たい悲しみとが、津波のように一気に僕の胸に押し寄せてくる。
「ダレのコ…?」
「分からない…。」
泣きながら首を横に振る麻里奈。
僕は麻里奈の真っ黒な髪の毛を5本の指で鷲掴みにした。
「誰の子なんだよ!
嘘つき!
裏切り者!」
僕たちの結婚式は、2週間後に迫っていた。
僕たちの結婚式は、できちゃった結婚ではなかった。
僕も、麻里奈も、婚前交渉に反対していた珍しい人種だった。
僕が、麻里奈を選んだ理由は、麻里奈が可愛かったからでも、美しかったからでも、性格が良かったからでも、経済力があったからでも、料理が上手だったからでも、頭が良かったからでもなかった。
全く?と訊かれたら、ウソになるかもしれないが、ともかく、それらは二次的な要素だった。
僕は、ロマンスに恋い焦がれる絵本好きの少女が、女性のフィギュアを右手で持ち男性のフィギュアを左手で持って、二つのフィギュアを抱き合わせたり、キスさせたりするかのように、ただ、純粋な愛で心と体が結ばれる結婚をずーっと夢見ていた。
何故だかは分からないし、恥ずかしくて誰にも言えなかったが、それが、他人(ひと)に言えない秘密だった。
そして、偶然にも、その秘密を打ち明けられる人物に出逢った。
そんな人物に出逢えるなんて、思ってもみなかった。
しかし、とにかく、「清らかな愛で心と体が結ばれる日イコール結婚」という珍しい価値観を共有できる人が僕の目の前に現れた。
そして、ついに、2週間後、その20年来の最大の夢が叶うことを期待し、ハートをドキドキさせながら過ごしていた日の、あまりにも衝撃的な出来事だった。
「誰の子なんだよ!」
僕は、半狂乱になり、鷲掴みにしている手の力をさらに強め、泣き崩れている麻里奈の後頭部に向かって、泣き叫ぶように訴えている。
麻里奈は力なく、洗面台に顔を埋(うず)めたまま、ただ泣きくずれている。
僕は、理解できない現実に直面し、絶望し、全身の力を失い、元々、撫(な)で肩なのに、さらに肩の位置を5センチほど下に下げて、麻里奈の部屋を後にした。
もう、七色の半円レインボーは見えない。
会社に「北海道の叔父が危篤状態になったので、1週間ほどお休みをいただきます。」と虚偽のメールを送り、パスポートと財布、歯ブラシと歯磨き粉、フェイスタオル2枚を、小さなリュックサックに詰め、着替えも持たず、部屋の戸締まりもろくに確認しないまま、僕はインドにいる恩師シャンカールの元へと飛んだ。
「僕は、シャンカールに会ったら、質問する。
『ニワトリのように、もしくは、聖母マリアのように、男性と関係を持たずに妊娠できる女性がこの世にいるのか?』
もし、シャンカールの答えが、『人間の女性は、無精卵を産まない。』であれば、僕は、そのままガンジスという深く豊かな水の流れに身を流す。」ことを決めて。