< お金,社蓄,奴隷,親子関係の悩みへのヒント – 浜松市の心理カウンセリングサロン “コリトル” – >
前回まで、
・ボクの娘は、父親が自分を可愛そうに思って、 自分の安心・安全を捨て、嫌われるリスクを冒して「ふうせん欲しい!」と泣き叫んだ。
・子どもは、自分の身の危険を冒(おか)してでも父親の自立を助けようとする。
・でも、そんな考え方は、フツウの考え方じゃない。
・ボクが、そんなフツウじゃない考え方を持つようになった、最初のきっかけは、娘が生まれる時のことだった。
・妻が帝王切開を拒み、母子共に体力の限界が来た時、婦人科の先生が、ボクに赤ちゃんの心音を聞かせてくれた。
・その心音は「わたし生きたい!」「わたし愛したい!」と、とても力強く情熱的にボクに訴えていた。
・ただ、娘のその声ならぬ声だけで、ボクの考え方がフツウじゃなくなったわけではない。
・その時のボクは、まだ「娘は、自分の安心・安全を捨てて、嫌われるリスクも冒して『ふうせん欲しい!』と泣き叫ぶ」という変わった考えかたを持っていなかった。
などと、お伝えいたしました。
目次
娘が生まれてからの「豊か」な生活
娘が生まれて、ボクはパパになりました。
そして、「愛したい!」という声ならぬ声を発してくれた、尊い生命「子ども」を持つことになりました。
だから、 当然、 ボクは「豊か」になりました。
が、しかし、(´・_・`) それなのに…。(´・_・`)
ボクは、その「豊か」さを感じることができていませんでした。
情けないことなのですが…。(。-_-。)
それどころか、反対に「出費が増えてしまう」という、漠然とした不安「貧しさ」を感じていました。
「ボクに、この子を養っていけるのだろうか?」
「それだけの経済力が、ボクにあるのだろうか?」
「この子の教育費・学費等の経済的負担をボクが背負い切れるのだろうか?」
と。
お金がなくなったら、どうしよう?
今となっては、
「子どもはかけがえのない存在。
存在そのものが癒やし・安心・豊かさ・シアワセの源(みなもと)。
だから、それに比べれば、お金の価値はたいしたものではない。
もちろん、お金も貴重で大切だけど、 子どもの存在、子どもと過ごす時間や思い出は、 お金には替えられない、 お金では買うことができない、豊かさとシアワセをもたらすもの。」
と、素直に思えるのですが、当時のボクは、つねに「お金」のことを心配していました。
目の前にある子どもという現実から目をそむけ
ボクの心のどこかに、常に、「お金がなくなったら、どうしよう?」という漠然とした不安や恐怖心を抱え、その不安や恐怖心から逃げるために、 ボクは生き、仕事をしていたのだと思います。
つまり、「目の前にある子どもという現実的な豊かさ」から目をそむけ、「お金がなくなったら、どうしよう?」という、
「非現実的な不安や恐怖心」にばかり、目を向けて生きていました。
お金がなくなることは死であり、人生の終わり
それは、ある意味、子どもを養っていくという、正義感・義務感・使命感・責任感の現れであり、悪いことではないはずです。
しかし、当時のボクは、「お金がなくなったら、どうしよう?」 という漠然とした不安から、「お金がなくなること = 死んでしまうこと」とか、「お金がなること = 人生の終わり」という恐怖心を抱くようになり、「お金のために生きる」ようになっていました。
つまり、ボクは、自分の生命をお金に明け渡してしまった、 「お金の奴隷」でした。
お金の不安と恐怖から逃げる方法
そして、「お金を稼げなくなったら、首をつるしかないなぁ。」(´・_・`)
「その保険金で、家族に生活してもらえれば、それが一番、楽かもしれないなぁ。」(´・_・`)
などということをよく思っていました。
たぶん、お金の不安や恐怖心から逃げる方法が、他に見当たらなかったから……。(-_-;)
なんだか、暗いことを書いちゃってすみません。
また、次回に続けたいと思いますので、よかったら、また、お付き合いくださいね。