わたし生きたい! わたし愛したい! 

わたし生きたい! わたし愛したい! 

こんにちは

0次元カウンセラーのぶさんです!

いつも、お世話になり、ありがとうございます。

 

前回、

・娘は、ボクが自分を制限・抑圧して可愛そうに思えたから、   「自立して、自分のやりたいことをやって!」と言いたくなった。

・そして、娘は自分の「安心・安全」を捨てて、   嫌われるリスクも冒して「ふうせん欲しい!」と泣き叫んだ。とボクは書いていますが、これはフツツじゃないですよね?

フツウは、

・娘は、単純に、風船が欲しかっただけ。
・子どもが親のことを考えて、「ふうせん欲しい!」なんて言わない。

ですよね?  

でも、実際、ボクは娘に譲歩して、風船を買うことで、ケチが過ぎたことに気づき、  「1,000円は高い!」から「1,000円は安い!」というお金持ちマインドに変わった。

だから、何かしら、子どもが決心してリスクを冒して、  「フウセン欲しい!」みたいなことを言ったときは、 親への愛情と信じて受け止めて、子どもに譲歩してみていただけないでしょうか?

なぜなら子どもは、『親に感謝されること』で『最高のシアワセ』を感じるから…。

など、とお伝えしたのですが、今日は、ボクが、こんな「フツウじゃない考えかた」をするようになった きっかけを、お話ししたいと思います。  

 

赤ちゃんの心音が弱くなっている

 
     
それは、娘が生まれる時のことでした。
娘の出産は、大変な難産。
陣痛が始まって、もう10時間が過ぎたというのに、赤ちゃん(娘)がお腹の中から出てきません。
それで、婦人科の先生が妻に帝王切開を勧めるのですが、妻は「帝王切開は嫌だ!」と言って頑なに拒み続けます。
 
しかし、さすがに、母子共に体力的に限界に来ていました。
そして、赤ちゃんの心音(心臓の音)が弱くなり始めていました。(´・_・`)
 
なので、婦人科の先生が、ボクに、「赤ちゃんの心音が弱り始めているから、帝王切開しないと赤ちゃんの命が危ない」
と伝えるために、ボクを手術室に呼び、赤ちゃんの心音をボクに聞かせました。
「ドックン、ドックン、ドックン、、、」
 

わたし生きたい!  

 
その心臓の音を聞いた時、ボクは衝撃を受けました。
それは、ピストルで「バンッ!」と、胸を打たれるような衝撃でした。
娘の声が、僕の胸に突き刺さりました。
「わたし生きたい!」 と…。
それは、声ならぬ声でした。      
 

早く死にたかったボク    

 
それは、僕には信じられない言葉でした。
僕は、生きることに疲れていたのだと思います。
そして、潜在的に「早く死にたい」という気持ちを、 心の奥に抱えていたのだと思います。
だから、娘の「わたし生きたい!」という言葉は、ボクには信じられない言葉でした。
「早く死にたい」という、ボクの常識とは、 まったく正反対の言葉だったからです。
 
そもそも、人間の中に「生きたい!」という情熱があるなんて、ボクには信じられませんでした。
そんな衝撃を受けたボクは、「これが、命(いのち)というものなのか?」 「これが、生命力というものなのか?」と、 婦人科の先生の前で、自問自答していました。    
 

わたし愛したい!

 
さらに、それだけでは、ありませんでした。
「わたし生きたい!」という声と同時に聞こえてきたのが、「わたし愛したい!」という声でした。
その声も、ボクに衝撃を与えました。
ボクの胸に突き刺さりました。
なぜなら「ワタシ生きたい!」と同じく、ボクの常識と、全く正反対の声だったからです。
娘の声は、「ワタシ【 愛されたい 】!」ではなく、「ワタシ【 愛したい 】!」だったからです。
 
 
そんな経験がきっかけで、ボクは、少しずつ、
・子どもは、自分の身の危険を冒(おか)してでも親の自立を助けようとする。
・子どもは、親に感謝されることで、最高のシアワセを感じる。
という考え方を持つようになったのだと思います。
 
もちろん、娘の「わたし生きたい! わたし愛したい!」という声だけで、ボクがそのような考えを持つようになったわけではありませんので、次回、もう少し、続きを書いてみたいと思います。
 
いつも、長々、だらだらとすみません。(^_^;)
もし、よかったら、次回も、お付き合いくださいね。  
 
今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました!
あなたのお幸せを祈っております。