チカラを抜くって難しいことなんだなぁ…
お客様を施術させていただいて、
「チカラを抜くって難しいことなんだなぁ…」と思うことがよくあります。
あるいは「 力(りき)まずリラックスしながら体を動かすって難しいんだなぁ…」と。
それは、ボク自身についても言えることですが、
私たちは、無意識に相手に合わせて、自分の心と体を反応させてしまう癖がついてしまっているようです。
つまり、自分の心と体を反射的に相手に合わせてしまう習慣が、長年の人生経験の中で身についてしまっているようです。
なぜ、力を抜くのは難しいのか?
では、なぜ、私たちは「力を抜くのが難しく」なってしまったのでしょうか?
言い方を変えると、
なぜ、「力を抜くのが難しい心と体」になってしまったのでしょうか?
「ねばならない」「こうあるべき」
私たちは、物心ついた時からルールや規則を守るよう教育されます。
「そこには行っちゃダメ!」
「それは触っちゃダメ!」など
また、小学校に行くと「やらなければならない」宿題が毎日のように与えらます。
そして、それは、私たちの常識や固定観念となります。
つまり、私たちの心に「ねばならないことをやることが人生」という世界観が固定化され、
「ねばならない」「こうあるべき」という意識や気持ちを潜在的に持ってしまっていることが、
「力を抜くことができない心と体になってしまった」原因のような気がしております。
「ねばならない」生き方を止められない理由
また、私たちが「ねばならないことをやる」生き方を止(や)められない理由は何かというと、
それは、たぶん、
「ねばならないことをやる」ことで安全地帯に居られるからではないかとも思っております。
それをやっていれば、嫌われないし虐められない
安全地帯とはコンフォートゾーン(Comfort Zone)とも呼ばれるのですが、
それをやっていれば「否定されない、叱られない、嫌われない、虐(いじ)められない」という、
自分の身や心が安全に保たれる場所(空間)のことです。
つまり、私たちは
「ねばならないことをやっていれば安全だから、そのコンフォートゾーンから抜け出せない」
ということのようにも思っております。
安全ではあるけれど不自由でもある
しかし、安全を選び、コンフォートゾーンに居続けることは、
「ねばならない」「こうあるべき」という、
ストレス(プレッシャー・抑圧・抑制・義務感・責任感・使命感)の中に居続けることでもあるので、
それは「心の自由、ストレスの解放、抑圧からの解放」を放棄することにもなってしまいます。
「ねばならない」を忘れられる時間
なので、そんな「ねばならない」という潜在意識から解放される時間を、
1日の中で1分でも2分でも感じていただきたいですし、
そういうストレスフリーな時間を持てないと、
自律神経が乱れて、心身が病んでしまうのではないかとも思います。
特に、コリトルでは
「ねばならないから解放される時間」
「やらなければならないことを忘れられる時間」を
お過ごしいただきたく想っております。