今回は、「社会貢献」の第1回目、
「不幸な社会」というテーマになります。
前回、
心がモヤモヤしたり、憂鬱になったり、
自分に価値を感じられなくなったりする原因として、
「社会貢献している実感がない」というものがあるのかもしれない、
などと書かせていただいたのですが…。
何をもって社会貢献とするの?
誰しも、
「人様からお礼を言ってもらえた」
「感謝してもらえた」という風に、
自分は人様の役に立ってると思えると、
心も安定するのかなあと思っております。
しかし、「社会貢献」と一口に言っても、
「何をもって社会貢献とするのか?」が、
いまいち、よく分からない…。
例えば、
ボランティア活動をすれば社会貢献したことになるのか?
貧しい人に寄付をすれば社会貢献になるのか?
というと、それも、少し違うような…。
そんな「社会貢献」という言葉の曖昧さも、
モヤモヤしてしまう一因なのかもしれません。
幸せな社会って、どんな社会?
なので、まず、
・不幸な社会ってどんな社会なのか?
・幸せな社会ってどんな社会なのか?
という青写真やビジョンを明確にすることが、
「社会貢献」する上で大切なことのように思ったりしております。
つまり、
「自分の活動が、
不幸な社会から、幸せな社会に移行する方向と合致していれば、
それが、社会貢献になる。」
という風に考えると、
少しモヤモヤもスッキリするのかなぁと…。
大きく広く、マクロの視点で、大雑把に、
ただ、このあとの話は、政治的な要素が多分に含まれていますので、
たくさん間違ったことを書いていると思いますし、
きっとご批判もたくさん受けると思うのですが、
不幸な社会の形と、幸せな社会の形を、
大きくて広いマクロの視点で、
大雑把に見ると、
「こういうことなんじゃないかなあ?」
と個人的に思っている内容になります。
それは、あくまでも、ボク個人の一つの考え方なので、
「そういう捉え方もあるのかなあ」という程度に、
受け止めていただけたら、とても嬉しく思います。
不幸な社会は三角形(▲)
なんだか、前置きが長くなってしまいましたが、
大きな視点、マクロの視点、
「木を見ず、森を見る(木を見て、森を見ずではなく)」視点で見た時には、
「不幸な社会は三角形(▲)」
という風に、ボクは考えております。
もちろん、不幸にも、いろんな要素があるのですが、
ここでは「不自由」を「不幸」の代表として考えてみたいと思います。
不幸の代表は不自由
つまり、
精神的に「自由」で、言いたいことが言えて、やりたいことができる社会は、幸せな社会、
経済的・物質的に「自由」で、買いたいものが買える社会は、幸せな社会、
という視点です。
そして、自由であるということは、
余裕(ゆとり)があるということ、
裕福であるということにも繋がります。
トップが一番正しい、賢い、能力が高い
例えば、三角形社会(▲)の代表として、
北朝鮮の主体思想というものがあります。
不勉強なので、これも間違っているかもしれないのですが…
主体思想とは、
天から(神様の身代わりとして?)降りてきた、
キム何某(なにがし)さんが一番賢くて、正しくて、
決断力もあって、判断力もある。
だから、キム何某さんが頭(トップ)になり、
庶民・国民は、キム何某さんの手となり足となることで理想社会ができる。
というものです。
そして、そんな主体思想が、社会主義、全体主義、共産主義など、
三角形社会(▲)の分かりやすい代表例なのではないかと思っております。
しかし、実際、そんな三角形社会(▲)は、
ソ連の崩壊・ベルリンの壁の崩壊・北朝鮮と韓国の貧富の格差という風な形で、
不幸な社会になることを歴史が教えてくれたのではないかと思っております。
つまり、三角形社会(▲)を作ると、
国民・庶民は、精神的な自由と経済的な自由を奪われて、
言いたいことも言えないし、やりたいこともできないし、買いたいものも買えない。
という不自由で不幸な社会になってしまうのではないかと…。
では、
「反対に幸せな社会とは、どんな社会なのか?」について、
次回、お伝えしたいと思っておりますので、
もし、よろしかったら、お付き合いくださいね。