ユング心理学とキリスト教神学
シャドウと原罪の違い ――「責める」のではなく「気づく」ために
ユングのいう「シャドウ(影)」とは、
自分の心の中にある“受け入れがたい部分”のこと。
たとえば、嫉妬、憎しみ、欲望、劣等感など…
私たちが「こんな自分は嫌だ」と思って見ないふりをしている感情。
これらは意識の表層から切り離され、無意識の深部に沈み込むので、
忘れたわけでも、消えたわけでもなく、
人生のある場面で私たちの行動や判断に陰のように影響を与え続ける。
原罪
一方、「原罪」はキリスト教の根幹をなす教えであり、
「人間は生まれながらに罪を負っている」という考え方。
アダムとイブが神の命に背いた行為を起源とし、
その罪は子孫たる全人類に受け継がれている。
つまり、「人間は本質的に神から離れており、救済が必要である」と…
救済が必要? 自己統合で癒やしは可能?
なので、
人は、何もしなければ“裁かれなければならない”けれど、
「神の恩寵(キリストによる贖罪)」を信じ受け入れることで、許されるという論理展開になるようです。
一方、「シャドウ」は“自分で自分に背いている”ことへの気づきを促すための心理的概念なので、
そこには罪の贖罪ではなく、“統合”と“癒し”によって救われるというような考え方になる。
たとえば、自分の中の「怒り」を抑圧して生きてきた人が、ふとしたことでキレてしまったとき、
「そんな自分は最低だ」と責めるのが原罪的な見方であり、
「自分には怒りを感じる側面もある」と気づくのがシャドウの統合。
つまり、
原罪は、「救われるために罪を認めよ」という外的な枠組みを持つ一方、
シャドウは「自分の一部を受け入れ、自分を癒すための気づき」を求める内的なプロセス。
言い換えると、
原罪が「人間の存在自体を否定し、上位の存在に救いを求めるもの」であるならば、
シャドウは「自分の否定された部分を見つめ、回復と自己実現へ向かうための力」
ということになるのかもしれません。