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《 前回までのあらすじ 》
花子は太郎と不倫してしまう。
そして、気持ちが不安定になり家族関係も悪化し、アルコールや安定剤に頼ることになる。
が、喫茶店のウェイトレス「コトハ」に出会ったことで、太郎への気持ちは消えていく。
そして5年ぶりに、子どもたちと共に炊き出しボランティアを行う。
そこで、花子は赤茶色のコートをきていた女性と再会する。
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7つ星ホテル
ハァー、ハッ、カツッ、カツッ。
スミレは、暗く静かな螺旋(らせん)階段を、一目散に駆け下りている。
アメリカ・ニューヨークにある、7つ星ホテルの非常階段で…。
ハァー、ハッ、カツッ、カツッ。
スミレは、恐怖におののき、息を切らし、ある者から逃げていた。
スミレの冷や汗は、白い湯気(ゆげ)になって、体中(からだぢゅう)の毛穴から蒸発している。
ある者の正体は分からない。
しかし、早く逃げなければ殺されてしまう。
知ってはならない秘密を知ってしまったからだ。
10年前、スミレはマディという女性ロック歌手のスタイリストになった。
スミレの奇抜なファッションセンスは、マディを際立たせ、世界ナンバーワンアーティストへと押し上げた。
或る日、マディはそんなスミレを、7つ星ホテルでのシークレット(秘密の)パーティに誘った。
「今度の金曜日に最高のパーティがあるんだけど、行かない? 他の誰にも喋っちゃいけない、シークレットパーティなんだけどね…。」と影のある笑顔で尋ねた。
スミレは、緊張やプレッシャー、ストレスに押しつぶされそうな日々を過ごしていたので、12月13日という不吉な日であることに一抹の不安を感じながらも、その恐怖心を0.1(ゼロコンマイチ)秒でかき消し、「イカした男と一夜を愉しめるなら、秘密のほうが安心ね!」と、怪しげな笑顔で快諾した。
13日金曜日22時
それは地獄だった。
酒と薬に酔っ払った狂人たちが、気味の悪い笑みを浮かべ、人間のやることとは思えないことをやっている。
「ヒヒヒ」とも「エヘヘ」とも聞こえる笑い声を出しながら、あり得ない物を喰い、あり得ない物を飲んでいる。
それは、スミレが10歳の時、日本の寺で見た地獄絵図そのものだった。
気の狂った人間(と呼びたくない生物)が、他人の不幸を嘲笑し、他人の征服に歓喜し、優越感に浸って快感を覚えている。
もちろん、今は、学校でも、会社でも、家庭でも、虐めが日常茶飯事になっているが、良心の呵責や理性が少しは存在している。
しかし、このパーティには、理性や良心の呵責といった白いものが完全にかき消され、人間の黒い欲求のみを、酒と薬で増幅させ、完全解放していた。
それが、このパーティの目的なのだから致し方ないのだが、人を虐げることに、なんの躊躇もない黒い生き物たちが、気味の悪い笑みを浮かべながら、あり得ない物を呑み、あり得ない物を喰べている。
世界の頂上
そんな光景を見たスミレは、お腹にあるもののすべてを、トイレで吐き出してしまった。
これが、世界最高峰の場所だった。
世界の頂上は天国ではなかった。
頂上にまで上り詰めれば、そこには浄土が待っていると思っていた。
しかし、それは幻想だった。
この世界の頂上は地獄だったのだ。
ニューヨーク空港
スミレは、愕然として、絶望した。
そして、とてつもない恐怖心に襲われ始めた。
早くここから逃げ出さなければ殺される、という恐怖を感じるようになった。
スミレは、冷や汗を蒸発させながら、50階の階段を一気に駆け降り、ホテルの外へ出た。
そして、右手を大きく挙げてタクシーに乗りこみ、真夜中のニューヨーク空港へ直行した。
羽田空港
翌日、スミレは奇跡的に、羽田空港までたどり着けたが、怖くてホテルにチェックインできない。
今は、ネットカフェでも身分証を提示しなければならない。
ある者たちは、世界を牛耳っている権力者たちだから、もし、身分証を提示したら、すぐに居場所がバレてしまう。
そして、あっという間に捕まってしまうだろう。
彼らにとって、煙(けむ)たい人間を拉致して処分してしまうことくらい朝飯前なのだ。
それくらいのことは、スミレもよく分かっていた。
それで、しばらく、駅の地下で野宿した。
あの地獄の情景が目に焼き付いている間は、何の食欲も湧かなかったから、食べられないことは、苦にならなかった。
しかし、さすがに、5日が過ぎ、寒さも身にしみて、体がエネルギーを欲するようになってきた。
そんな時に、同じ駅で野宿していたホームレスから「炊き出しに行かないか?うまいぞ。」と誘われたのだった。
聖母ハナコ
スミレは、生まれて初めて炊き出しに行った。
そこで、笑顔の綺麗な美しい女性に出会った。
優しく暖かな笑みと一緒に、温かなご飯、温かな豚汁を提供してくれる女性は、白く輝いていた。
まるで、聖母だった。
スミレは、まるで体を温めるために、ストーブに近づくように、聖母の近くに行って腰掛けた。
近くにいるだけで、安心し、心と体が暖められるようだった。
そして、湯気の出る豚汁をフーフーしながら、口に含ませた。
「美味しい…。体があったまる…。」
スミレは、本物の味噌の味を初めて知った。
「味噌って、こんなにコクがあって美味しいものだったんだ」
と、生まれて初めて知った。
そして、御飯の甘み、ジャガイモの甘み、ニンジンの甘み、タマネギの甘み、豆腐の甘みをかみしめた。
そして、「こんなに美味しい御飯、初めてかも」と、言葉にした瞬間、緊張感が一気に緩み、止めどなく涙が溢(あふ)れ出した。
想定外
その時、再び、想定外のことが起こった。
聖母が自分を抱きしめてくれている。
聖母が、このみすぼらしく貧しい、劣った人間を、暖かな胸で包むように抱きしめている。
お風呂にも入っていないし、歯も磨いていなかったのに…。
しかし、聖母は、そんな匂いを毛嫌いする様子を微塵も見せず、ただ無言でスミレを抱きしめ、一緒に悲しみを抱え涙を流している。
スミレには信じられなかった。
そんな人間がこの世に存在していることは、スミレにとって想定外のことだった。
この世界に天国はないと絶望していたスミレは、ホームレスの集まる公園で聖母と天国とを見た。