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《 前回までのあらすじ 》
(2人の子どもを持つ母親)花子は、パート先で出会った太郎と不倫してしまう。
しかし、その結果、家族関係が悪化し、ストレスを抱え、アルコール、ロキソニン、精神安定剤、睡眠導入剤などに頼らざるを得なくなる。
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喫茶「ロトール」
花子は、喫茶「ロトール」のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
ハキハキと刻み良い高音の声だが、温かさと落ち着きを感じさせる低音が混ざっていて、
声にエコーがかかっているように聞こえた。
5mほど先にカウンターがあり、その声はそこからだったようだ。
「お好きな席におかけください!」という声が、またそこから聞こえる。
よく見ると、20代くらいの若い女性が、キッチンクロスで皿を拭きながら、こちらに向かって笑顔を見せていた。
外に比べると店内は暗く、ようやく花子の目が店の暗さに順応してきたようだった。
その若い女性に軽く会釈し、花子は奥へと向かった。
亡き王女の…
ピアノの音がポロポロと聴こえる。
スピーカーから流れるBGMだと思ったが、奥の壁に漆黒色のアップライトピアノが設置されていて、ニット帽を被った細身の女性が、小さく上下にカラダを揺らしながら向こう向きでピアノを奏でている。
「素敵な音色(ねいろ)…」と心の中で声を発し、花子は、そのままピアノの傍(そば)の空いている席に腰かけた。
「たしか、この曲は『亡き王女の…』」と、曲名を思い出そうとしたが、曲名の後半部分が思い出せない。
「う〜ん?なんだったっけ?」と、何度も思い出そうとしたが、思い出せなかった。
不適切なこんにちは
カウンターにいたあの若い女性が、「こんにちは!」と言って、花子のテーブルにお冷とおしぼりを持ってきた。
そして「ピアノ、お好きですか?」とニコニコ微笑みながら花子に尋ねる。
花子は、軽く首をかしげた。
「こんにちは!」という言葉も、「ピアノ、お好きですか?」という言葉も、「初対面の客に言う言葉としては不適切に感じるんだけど?」と、少し違和感を感じたからだった。
が、1秒後には、「ああ。たぶん、ここは常連のお客様とフレンドリーな会話をする店なんだ」と、不適切な言葉の理由についての答えを花子なりに見つけ、遠慮のない言葉をウェイトレスに返すことにした。
「はっ。はい。
ところで、たしか、この歌は〜…。
亡き王女のぉ〜〜…?」と。
スマイル0円
すると、ウェイトレスは、花子が曲の題名を思い出せずにいることを察し、先程と同様、ハキハキした切れのある声で、
「亡き王女のためのパヴァーヌ?」と、右手の人差し指を立てて答える。
「あー。それ、それ!
パヴァーヌです!」
と、ピアノの演奏を邪魔しないよう、ヒソヒソとした声で、花子はスマイル0円の笑顔をウェイトレスに見せ、無邪気に笑った。
コトちゃん?
「ユリさんのピアノは、みなさん、大好きなんですよ!
みなさん、癒やされるって言われるんです!」
とウェイトレスも笑顔で答える。
さらに「アイスのタピオカ豆乳ラテでよろしいですか? 」と続けるので、
花子は「はっ? はい。大丈夫です。」と答えた。
「今でしたらお客様も少ないですし、お話をお聴きすることもできますので、遠慮せずに言ってくださいね。
あ。申し遅れました。私、コトハです。
みなさんからは、コトちゃんって、呼ばれてます。
よろしくお願いします。」
と軽く頭を下げ、そのままカウンターの方に消えてしまった。
メニュー表はお客様との会話の中に
「なんだか不思議なお店?
メニュー表とか、ないのかな?
あの娘(こ)、さっき『今でしたら、お客様が少ないので、お話をお聞きすることもできます?』って言ってたよね?
いったいどういう意味だろ?」
と疑問が湧いたが、
「たぶん、この店は、 『メニュー表はお客様との会話の中に』みたいなキャッチコピーで売っている店なんだろう」と、
3秒間で自分なりにそれらの問題を解決した。
そんなことより、亡き王女のためのパヴァーヌに耳を傾けることのほうが、よっぽど今の自分にとって大切なことだと、無意識に判断したからだった。
花子は「素敵な音色」に耳を澄ませる。
心が洗われ、頭の中のゴミが減り、ミントのような清涼感漂う空気が、肺の中を行き来した。
禁断の恋ゆえの悩み
約2分後、亡き王女のためのパヴァーヌは終わった。
数人の人が、店内に響かないよう湿っぽい音で拍手をしている。
たぶん、ニット帽を被った細身の女性も、足元のマフラーペダルを踏み、消音モードでピアノを弾いていた。
程なく、さきほどのウェイトレス(コトハ)が、氷の音をカラカラ鳴らしながらタピオカ入り豆乳ラテを運んできた。
花子は、気になっていたことを思い出し、気兼(きが)ねなくさり気なく、ウェイトレスに訊いてみる。
「もしかして、先ほど『お話をお聞きします』って言われましたか?」
「はい。
お客様が、亡き王女のためのパヴァーヌのお話をされましたので。」
とコトハはニコニコして答える。
一方、花子はキョトンとして、「意味が分からないんだけど」と言いたげな表情を見せた。
すると、コトハは、50cmほど花子の左耳に近づき、小さな声で囁(ささや)いた。
「もしかしたら、禁断の恋ゆえのお悩みかと思いましたもので…。」
そして、タピオカ入り豆乳ラテを、花子の目の前にそっと置いた。
ピアノの音も、カラカラという氷の音も、聞こえなくなった。
また次回に続けますね。
よかったら、引き続きお付き合いくださいませ。
今日も、最後までありがとうございました!
あなたのお幸せを祈っております。